船岡山観音院慈眼寺



会見の間


会見の間

岩村軍監・河井総督会見談判所 (会見の間)は、本堂に向かって右側の上段の間である。岩村精一郎
岩村軍監は名は精一郎、土佐藩士で、北越追討山道軍軍監、当時23才の青年将校であった。一方、河井総督は、名は継之助、長岡藩家老上席で、軍務総督ときに42才の働き盛りの名宰相であった。

 この両者は、慶応4年(1868年)5月2日、当寺院の本堂において会見し、おおいに談判したが、不幸にして決裂してしまった。その結果、長岡藩は、予儀なく官軍に抗戦する羽目となり、ついに長岡城陥落という悲運を招くことになった。
 一口に談判といっても、長岡側としては、家老の河井継之助自らが、藩主牧野駿河守の歎願書を携えて官軍の軍門に出頭し、礼を厚くし辞を低くして、ひたすら陳情歎願したものであった。河井継之助とくに、継之助は、この会見には、長岡藩の和戦向背、そのいずれかの運命を賭け、願わくば、栄光ある平和と藩の安泰とをかち得ようと、決死の覚悟で臨んだ。これに対して、岩村軍監は、長岡藩が、 これまで、出兵や献金の朝命にも応じなかった不都合な態度や、洋式兵器を大量に買入れ、日夜練兵に励んでいる不審な行動などを、いちいち数え上げて、激しく責立てるばかりで、少しも 継之助の苦しい立場などを推量してくれなかった。
 もともと、官軍は、京都を進発するときから、すでに長岡城と会津城とを二大攻撃目標に定めていた。それゆえ、いかに継之助から情理を尽くして説かれても、めったなことでは、 長岡攻めを放棄するわけにはいかなかった。最後には、「藩主の心事は、くわしくこの書状に書いてありますから、せめて、これを・・・・」と、継之助のさし出す歎願書などには目もくれず、岩村軍監は、 「従来、一度も朝命に従わなかった長岡藩の言訳が、いまさら、立つはずもない。願いの趣はきっぱりお断り申す。この上は、ただ兵馬の間に相見えるばかりだ」と、いい捨てて退席してしまったという、 まことに、継之助の痛恨は、いまからでも察せられる。
 この談判のもつ意義は、重要で、しかも、微妙な運命的な陰影を、戊辰史の上に投げかけているように思われる。もし、継之助の願いどおりに、事が運び、西郷、勝の江戸城明渡し談判のように、談笑のうちに成功していたらこの後の維新史は、もっと少ない流血と犠牲で済み、明るい、感動的なページに書換えられていたことであろう。
 岩村河井会見記念碑は、前記のように、慶応4年5月2日、この寺で、両者が会見し談判した史実を記念して、昭和14年(1939年)、当山先代住職船岡芳快の発願によって建てられたものである。碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は、小千谷市出身の島田博の筆である。

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